雛形書庫

An Unmoving Arch-Archive

(作業空間|執筆作業)をととのえる (3)

前回記事、第2回の続き。

tl.hateblo.jp

 

話は横道にそれるけれども、アウトライナー自体がワークスペース(作業空間)であって、作っては壊しを繰り返す・整然さとはほど遠い場所なのでは? という考えが浮かんだので、少し思考を進めてみる。

※いずれも個人の感想であり、かつwork in progress。

 

アウトライナー as 考えるためのツール

Kindle Unlimitedでたまたま手に取ったノート術の本、深く考えるための 最強のノート術から思いもよらず着想を得た。この本が主張しているのは、考えるツールとしての思考ノートを作りましょう、そしてそのノートは情報整理のためのノートとは分けて考えましょう、というもの。

資格試験の勉強用などは別として、基本的に仕事用とかプライベート用とかに分けたりしません。あらゆる発想や情報を1冊のノートに集約します。この考え方は決して新しいものではなく、ベストセラー『情報は1冊のノートにまとめなさい』(奥野宣之著、ナナ・コミュニケーション)にも紹介されています。しかし、思考ノートはあくまでも考えるためのツールであり、情報整理の方法ではありません。(強調原文ママ

――午堂登紀雄『深く考えるための 最強のノート術: ――年収1億稼ぐための思考法 (「しくみで稼ぐ」シリーズ)

 

僕自身はWorkFlowy、つまりアウトライナーをそんなにきれいに使っていなくて、階層構造の中には作りかけの文章だったり、書き終えたあとに残った断片が至るところに転がっている。そうした断片は、いつかは整理しなくちゃと思いつつもずっと先送りにしていて、毎年ある時期になると「201X年」という雑な大項目を作ってはその下に全部押し込んできた。しかしアウトライナー考えるためのツールにすぎないという立場を取るならば、作業空間には加工したあとに出てくる "端切れ" があるのは当然であって、それ自体を無理に整頓する必要はない(ただし、どこか一箇所に集めて作業スペースは空けるようにしよう)ということで俄然納得がいった。

 

また、このことは巷でよく言われるアウトライナー通りに書けない問題とも関連していると思っていて、アウトライナーが考えるためのツールであるとすれば、アウトライナーを使う、すなわち思考することがアウトラインの変更を促すのはごく自然なことだろう。むしろこれは "問題" ではなく、変化を歓迎するポジティブな視点で捉えても良さそう。

『深く考えるための 最強のノート術』では思考ノートの使い方として、「後から何度も見直し、加筆し発展させる」ことを挙げ、「ノートに書き込んでから数日経って見返すと、必ず何か違う発想を思いつくものです。」と述べている。僕もこれには同意する*1し、そうして加筆していくことがアウトラインの階層構造のバランスを(良い意味で)崩し、要素同士の関係を変化させていくということは、これまでに自分も経験してきたことでもある。

意識的に思考を止めない限りアウトラインは変化し続けるし、そしてその変化はそのまま活かせるわけではなく、なんらかの意図を持って整えてやらないことには使いづらい。なればこそ、不定なものを取り扱うためのツール、そして整えた結果としての "端切れ" が生まれてしかるべき場所がアウトライナーであると、そういう感覚を持っている。

 

アウトライナー as クレイモデルのクレイ

自動車をデザインするときにはいきなり金属素材を取り扱うのではなくて、まずは粘土でプロトタイプを作り、頭の中にあるイメージを具体化してみる。この粘土製プロトタイプのことをクレイモデルと言ったりするけれども、アウトライナーで作れるのはこのクレイモデルであって、すなわちアウトライナーとは粘土のようなもの、というたとえが思い浮かんだ。その可塑性ゆえに項目間の順番を入れ替えたり、あるいは項目が階層間を行き来すること、『アウトライン・プロセッシング入門』でいうところの "シェイク" が容易にできるといえる。 

blog.mazda.com


しかしクレイモデルはあくまでも中間生成物としての模型であって、真に作りたいものは模型ではなくて実車であろう。アウトライナーも同様であって、論理構造や情報のコンテンツのみを扱う作業空間として位置づけ*2、そこで試行錯誤しながら言いたいことの骨格を組み上げ、また情報の並びを整えてみる。そうして出来上がったモデルに基づいて、改めて実際に作りたかったものに取り掛かる、というプロセスが、自分にとっての文章作成、そしてその過程でアウトライナーが果たす役割の認識に近い(もっとも文章だけ作るのであれば、アウトライナーだけで最終成果物まで持っていくことは可能だけれども)。クレイモデルを整えていくうちに粘土の切れ端が出てくるように、アウトラインもまた整える過程で "使わなかった文章の断片" が生じるのは道理である。

 

そして、クレイとは変形し続けるものであり、それはすなわち結晶にならないということ(手で掴むことはできるけれども)。ゆえにアウトライナーに残した思想を凍結させようとするならば、それ相応の然るべき静的な媒体――下記引用中では書物――を必要とするというのが、今の時点での僕の考えである。

水は凍つた時に初めて手で掴むことが出来る。それは恰かも人間の思想が心の中にある間は水の様に流動して止まず、容易に補足し難いにも拘はらず、一旦それが紙の上に印刷されると、何人の目にもはつきりした形となり、最早動きの取れないものとなつて了ふのと似ている。寔に書物は思想の凍結であり、結晶である。

――湯川秀樹目に見えないもの (講談社学術文庫)

 

最後の引用のところは若干のpedanticさと牽強付会な感じがしないでもないけれど、今回はこのへんで。さらに続く着想を得られないかと、『アウトライン・プロセッシング入門』をもう一度あたっている。■ 

 

第4回に続く: 

tl.hateblo.jp

 

*1:

今回の一連の投稿記事も、あえて1日で仕上げずに、日をまたいで繰り返し考えることで何か違う発想を思いつくことを期待している

*2:

なので、Roam Researchが持っている項目の見出し装飾機能 (Heading) は、そういう需要があることは理解するけれども、個人的には使おうという気はしない。アウトライナーで作るものは中間生成物であって、見出しは階層化による上下関係で事足りるし、なればこそのアウトラインだろう。もちろん最終成果物としての文章では、(このブログ記事のように)大項目を適切な見出しに装飾してやる必要があるが