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Morgenröte/『読む・打つ・書く』を読んだ

はじめに

ここしばらくはギルティギアの新作を遊んでいたこと、それにお勤め先が変わったこともあって、気がついたら半年ほど論文読みから離れていた。 そうしたものたちがようやく一段落したこともあって、そろそろ研究を再開したいと思ったのが冒頭のツイートだけど、その前にひとつだけ本読みの記事を書いておく。

『読む・打つ・書く』を読む

読みの心地よさ

少し前に近くの本屋に立ち寄ったらたまたま本書を見かけて、以下に引用するプレリュード冒頭をその場で立ち読みしたかどうか、とにかくピンときたのでそのまま買って帰った。

この上なく私的な営みとしての読書という行為は究極の利己性を帯びている。そこでは本を読むその人だけがこの世に存在し、他者はまったく介入する余地がない。だから、私には私なりの本の読み方があり、それは他者とは何の関わりもない。(p. 3)

究極に利己的な活動としての「(本を)読む」「(書評を)打つ」そして「(本を)書く」ことについて奏でられた本文はもとより、その居心地の良さは本書の構成にも由来している。 それは紙面の構成でいえばパラグラフをベースに書かれていること、そして本の構成でいえば、学術書としての文献リスト・註・索引の「三点セット」が付属していること。 前者は個人的な嗜好であり(自分でもこうしたまとまりごとに書いてる)、また後者の重要性は第1楽章で述べられているけれども、本書を繰り返し "聴く" 過程でその便利さを実感する。 三点セットについては著者は一貫して「自分のため」と述べつつも、それらが他人にとっても役立つものであることは容易に想像がつくし、少なくとも僕にとってはそうであった。

文献リスト・註・索引の三点セットのうち、索引は事項/人名/書名別に分かれていることから一見して御利益がわかりやすい。 また文献リストは「病膏肓に入る (p. 72)」精度で錬成されていて、その考え方は1-7節で述べられているけれども、文章の行間からも並々ならぬ熱量が伝わってくる。 ある程度は完成形の一般解が存在するであろうこれら2点とは異なり、註釈は何を書くか・どう書くかの著者の個性の見せどころであって、本書では読書の(著者自身にとっては執筆の)"動線" を保つべく、註は本文中に織り込まれている。 「重要な論点と些細な挿話を文章のなかでいわば対等に扱っているということになる (p.70)」。 重さも話題も様々なパラグラフから一本に撚られた本文の読み味は、しかしこれはこれで人生論ノート(三木 1978)的というか、話題の移り変わりを眺める楽しさがある。 テーマを捉える著者のアンテナの広さ、背景知識の深さが過ぎて、自身の理解が完全に追いつかないところもなんとなく似ている。

そして上で挙げた三点セットに加えて、本書巻頭には鍛え上げられた目次が登場する。 第3楽章で述べられているけれども、目次が本文のモデルとなっているおかげで、読み手としては目次を読むだけで「『短縮された読書』を達成することができる (p. 67)」。そのように作られた目次は読者としてはありがたい。 後で触れるけれども、そのように目次が本文から独立することなく、本文とともに相互的かつ漸次的に作成されるスタイルにも個人的に親和性がある。

読み方の心地よさ

前節で紹介したのは本書自体の読みの印象だけれど、本書で述べられている読み方 (how to read) でいえば、 付箋とメモとマルジナリアを携えながら読むやり方がすき。「例えば、人類を大きく二つに分けてみることができる。本を読む者と読まない者に。読むものをさらに二つに分けられる。本に書き込みをする者と書き込みをしない者に。」とは本書の文献リストを辿って見つけた『マルジナリアでつかまえて』(山本 2020, p. 41)にある文言だけど、僕は本を少し読んで、しかし本に書き込みをする者だった。その余白への書き込みのことをマルジナリア (marginalia) と呼ぶことを本書で初めて知った。

図書への "書き込み" に対しては根強い反対論をよく耳にする。 (p. 64)」書き込むものとそうでないものの間には大きな隔たりがある。 自分の来し方を振り返ると、学生だった当時に「教科書を最良のノートとすべし」といって本への書き込みを厭わない先生がいて、当然学生にもそれを勧めていた。いま思うとあれはマルジナリア活動のさきがけであったように思う。 ちなみに本書の冒頭にはドイツ語で書かれた一節があって、検索してみると日本語訳で読んだことのある、とある詩に行き当たった(何の詩だったかはぜひ本書を開いてみてほしい)。 この詩もまた学生だった当時に「尋む(とむ)」という古文の動詞をきっかけに知ったものであって、まあこうやって自分自身を振り返ってみても、受けた学恩は有形無形を問わずいくらで出てくるものだなと感じる。

人それぞれ考え方はあるだろうけど、個人的には本書にある "消耗品" (p. 65) という捉え方にそこまで違和感はない。むしろそれ以上に、書き込みこそ自己鍛錬に必要な作業であるとの主張にはおおいに奮い立たされる。

現在の読者であるわれわれが本に向かって様々な "書きこみ" をすることは、積極的かつ生産的な読書行為として不可欠であり、それなしには読書という鍛錬を通じた知的な "脚力" は身に付かないとさえ言えるのではないだろうか。(p. 64)

あとは僕もあんまり覚えられない派なので、本書の文献リストにあったメモ書き法を参考にしてA6反故紙の束を用意してみることにした。どこかで書いたかどうか覚えていないけれども、普段は75 x 75 mmの付箋を使っていて、それよりも書ける面積が少しだけ広いのがよい。

インタールード

本書の幕間(インターリュード)では本とともにある研究者人生のありようが語られていて、あるいは著者のブログからもそうしたものの一端を窺い知ることができる。 本書の文献リストから辿って見つけたとある記事を読んでいて、ここでの例え話を完全に理解しているわけではないものの、いまの自分の状況もそう違わない感じのものなのだろうなと想像している。

note.com

この記事もっと早くに読みたかったなあ……とある城下町にとっては、この手の話は言うほど "甘い誘い" ではなくて、どちらかといえば「膝に白羽の矢を受けてしまってな……」みたいにみられがち。 かつて読んだ作品に「私達が国を愛しても、国は私達を愛してはくれないんだよ?」という台詞があって、まあそこまで大事(おおごと)でないのは明らかなんだけれども、それでも天守閣での御奉公が研究者としてのキャリアを必ずしも保証しないのは想像に難くないし、そのことにはいつも悩んでしまう。

とはいえ、「長い人生のなかで "たまたま" が果たす役割は無視できない。 (p. 21)」お勤め先が "たまたま" 変わらなければ、居を移した挙げ句に "たまたま" 近場の本屋を訪れなければ、本書を読むこともなかったかもしれない。 著者は研究者としての心得の5番目として「偶然を受け入れる構え (p. 24)」を挙げているけれど、まさにそんな心持ちでいるのが良いのだろう。 長くなるので特に引用はしないけれども、本書のインターリュードの端々にある一節、むしろインターリュード全体に励まされるところが多かった。 何にせよもう少ししぶとく・したたかさを持ち・そして体系立った専門知を持つ、そんな研究者を目指したいもの。

『読む・打つ・書く』を読んで書く

本を書くことについては第3楽章で、ポール・J・シルヴィアの『できる研究者の論文生産術』を引き合いにして著者の経験が語られる。 かくいう僕もかつてこの本を読んだことがあって、ひところは書く機運が高まったものの、その後は続かなかったひとりだった。 まあ当時は色々あって忙しかったし、まだ研究のサーベイも足りていなかった、あとはPCのスペックも今より貧弱だったし、なによりインスピレーションが……などと言い訳は無限に湧いてくるけれども、そうしたものをすべて撃破してくれるのがこのシルヴィア本のはずだった。 本書の帯に「良い習慣は、才能を超える」との謳い文句があり(注:2015年7月当時の記録)、これがつまるところの本質なのだろうと今では思う。 必要なのは良い習慣だが、習慣化するために何が必要か、その仕組みのほうにもう少し気を配るべきであったのかもしれない。

シルヴィア本の本来の威力を感じるうえで本書はうってつけだろう。 「ちょっとした努力の積み重ねで実現できる手立てがあることを私は自分自身を "実験台" にして試行錯誤した。 (p. 315)」 著者自身もはじめからそうした漸次的な執筆スタイルではなかったことが明かされ、そしてシルヴィア本を経たbefore/afterの対比が示されているところに何よりの説得力がある。 何にせよ著者自身の執筆や翻訳経験を題材にして、テキストファイルのバイト数(≒文字数)の詳細なデータを携えつつ執筆の過程を公開されてしまうと、読み手としてはもはや言い訳ができない感がある……が、まずは足元だけ見て、文字数を稼ぐところから。

テクニカルな話題として、シルヴィアの方法で微分的に書き溜められた文章をどうやって積分的にまとめ上げるかについて、本書ではいくつかのアイデアを提示している。 そのひとつである「目次(案)の作成と漸次的改定」に関しては、普段書いているとなんとなく肌感覚として理解できる。 うまいアウトラインを作れれば執筆が捗るし、その逆もまたしかり。しかしうまいアウトラインを練り上げるためには、アウトラインの中身である本文が必要になってくる、というのが個人的な体験。 本文とアウトラインは鶏と卵のような関係だと認識していて、しかし本書で出てくるように目次を "モデル"、原稿を "データ" と統計学的な観点から捉える見方は初めてで新鮮だった。

おわりに

なかば偶然ではあったけれども、いいタイミングで読めた良い内容の本だった。本にまつわる話にとどまらず、研究者のキャリア指南書としても面白く読んだ。

この記事は半分は本書へのささやかな返礼、そしてもう半分は「自己加圧的 "ナッジ" としての書評 (p. 204) 」とすることを目的に書いた(書評ではないけど)。 タイトルは本書へのリスペクトとして、本書を読み始めて数日後に浮かんだ。 「書名さえ思いつかなかったらその企画はそもそもだめだったと思った方がいいだろう。 (p. 277)」しかし思いついたのでこうして書き上げることができた。 もう半分である自己加圧については、"明日の私" がこの記事を読んで「そうだ格ゲーやるんじゃなくて論文読むんだった」と思い出してくれることを期待したい。仕事に戻ります。

文献リスト