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『読書の価値』――本を通して人に会う

本だけが文化ではない。人が創作したものは周囲に沢山ある。ただ、本ほど効率良く、直接的に情報や思想を伝えるものは少ない。時間当たりに伝達される情報量が圧倒的に多いのが、本の特徴である。 (p. 90)

連想のきっかけとなる刺激は、日常から離れたインプットの量と質に依存している。そして、その種のインプットとして最も効率が良いのが、おそらく読書だ、と僕は考えているのだ。 (p. 159)

 

上の引用はいずれも本書にある主張。本を読むということは、効率的に他者の思考に触れること。かつ、効率的に日常から離れたインプットを得ること。その観点で言えば、森博嗣の読書の来歴が書かれた本書は、彼の思考・着想に最も近いということになるだろうか。本書を読めば彼の人格に近づける、のかもしれない。

 

 

他者の思考を覗きこむ体験

まえがきと第1章では、著者のこれまでの読書の来歴が事細かに記されている。「他者の思考を覗きこむ体験」とは第1章の節題のひとつであるが、本書自体がまさにその通りで本当に面白い体験があった。たとえば自分がどうやって文字を認識し・文章を理解するようになったのかということ、それは小学校に上がる以前の話だけど、僕自身にはその記憶がほとんどない。あるいは専門書を読んだときの体験、巨人の肩の上に立つ感覚は確かにあったはずなのだけれど、いつしか自分の中を通り抜けてしまっていた。まえがきでは著者が文字を理解するようになった経緯、そして幼くして専門書から人類の知識に触れたときの感動が書かれていて、このような記憶力と感性は自分にはなかったから、それだけで興味深いものであった。

 

「もしあなたが小説家になりたかったら、小説など読むな。*1」という著者の主張から、僕は著者が小説をまったく読まないものと思い込んでいたのだけれど、本書によればそれは間違いだったようだ。著者の読書体験として何人かの作家名、それはミステリー小説作家もいれば推理小説作家、詩人やエッセイストの名前もあり、また具体的な作品名も並んでいる。世間一般でいう読書家の基準を知らないけれど、著者も多分に漏れず読書家といって差し支えないように思う。また小説家ではないものの、漫画家の萩尾望都についても詳しく書かれていて、その熱のこもった書きぶりから思わず彼女の作品が読みたくなった。

 

 

森博嗣の読み方

「人は、結局は『人に感動する』ものである。*2」感動した作品があれば、その作者の人となりが知りたくなる。上で挙げられた作者や作品名、すなわち著者にとっての過去のインプットに加えて、本の読み方もまた具体的な情報という意味では有益だった。それは小説を「展開」して読み、体験とするというやり方で、以下に本文を引用してみる。

 

ある場面でソファに座った、と書かれていて、その後、別の場所に立っている、と書かれていれば、その間に、ソファから立ち上がって、そこまで歩いたことになるだろう。それを、僕は頭の中で再現する。これが「展開」である。 (p. 56)

本も映画も、自分の体験として記憶されているからだ。夢で見たものも、人から聞いた話も、体験として覚えているから、わからなくなる。印象が強いものほど、自分の体験に近いレベルになる。文章を読み、それを自分の頭の中で展開することで、初めてそれが「体験」になる、ということだ。 (p. 30)

 

著者は「本で一度読んだことは、ほとんど忘れない (p. 30)」とあり、それは著者自身の能力によるところが大いにあるのだろうけど、こうした読み方もまたそれを手助けしているのだと思う。感情移入よりも深いレベルで自分の体験として捉えること、こうした読み方は自分ではまったくしていなかったので、参考になったというと少しおかしいけれども、世界の広がりを知ることができる。

 

 

本とは人

面白い着想だと思ったのが、第2章に出てくる本の本質を考えるところ。ここで著者は「結局、本とは人とほぼ同じだといえる (p. 75)」と述べていて、詳しくは本書を参照してもらいたいのだけれど、人について考えるように本についても考えることで、自ずと本選びの方法も見えてくる。自分にとって他人はどのような存在であるか? あるいはどういう人と友人になりたいのか? という問いかけは、人を本に置き換えても依然として成立する。では友達が欲しいときに、知り合いにおすすめの人を尋ねるだろうか? 人と本とをほぼ同一視するこの主張は、本選びについて最終的にたった一つの原則に帰着し、かつ本の将来像をも予想させてくれる。

 

ではその原則から具体的にどう行動していくのか、第2章には著者の本の選び方が書かれた節もある。著者は雑誌フリークを自称しているけど、改めて考えてみると、雑誌というのは日常から離れた・無作為のインプットを提供してくれるとても優れた媒体だと思う。今の世の中、さくっと検索しただけでは多かれ少なかれバイアスのかかった情報しか出てこない。ニュースを見れば衆目を集める派手な話題ばかり、キュレーションメディアが持ってくるのはどこか見たことのある記事ばかり…そうではなくて意識的に無作為な当たり方をしていくこと、それは難しいことではあるのだけど、そうすることで他人とは異なる着想や発想が育ってくる、と説く。研究者で小説家であるという著者の仕事柄、"着想" や "着眼" の重要性は何度も繰り返し強調されている。

 

 

読書の価値

タイトルにもある読書の価値については、まえがきの終わりでさっさと語られている。「僕が本から得た最大の価値は、『僕が面白かった』という部分にある。 (p. 23)」だからこの本も、僕にとっては面白かったけど、他の人にとってそうである保証はない。けれど何かしらの本との出会い、あるいは読書というものは、実はとても素晴らしいことなんだよという純粋な感動が本書にはあった。その価値は最後は自分自身で見つけるにしても、あるいは本書をひとつの "別解" として携えるのも良いかもしれない。■

しかし、誰にでも共通して効果があるのは、やはり読書だと思う。それは、そこにあるものが、人間の個人の頭から出てきた言葉であり、その集合は、人間の英知の結晶だからである。 (p. 160)

 

読書の価値 (NHK出版新書 547)